2010年5月31日月曜日

確実な時代対応。

今日の大朝はうす曇り、肌寒い。昨日の日曜日も天気は良かったが、風と肌寒さ、明日から6月とは体感的には考えられない状態である。さて、先週の月曜日、急遽、台中へ出張した。急遽でしかも、火曜日には帰国と言うハードスケジュールで、飛行機が取れず、帰りは福岡空港になった。台湾も3カ月ぶりになるが、確実に時代対応がなされている。やはり日本と同じ、中国大陸を中心に、いや、大市場として大きく変わっている。聞くところによると、リーマンショックの影響こそ日本とは少し違い、大きな影響こそなかったと聞くが、大きな流れは全く一緒である。タクシーが日本とは安いため、国民の足として利用していたが、最近はバス、MRT等の利用に変わっている。ちなみに値段は1/10である。節約志向に随所で変わっている。国が違うので、是非をつけるわけではないが、日本より、スピードが速い事には気がつく。これは大切なことだと痛感する。過去の栄光ではないが、まだ心の片隅に、「このままで時がたてば何とかなるのではないか。」等とあまい考えを持っているのは私だけではないだろう。しかし、台湾で肌で感じてわかるのは、危機感がまったく違い、確実にスイッチが切り替わって「未来」に標準を向けている。短期間の出張であったが、自らの甘さを感じ大きな収穫を得た。
台湾新幹線で台中へ移動した。ご存じのように日本の新幹線だ。日本の「700型のぞみ」が採用されている。中は写真のように全く日本と一緒であるし、快適である。各駅は日本とは違いスケールが違う大きさである。ただ利用者はまだ少ない。値段の事だと思う。唯一残念なことは、ボディーを掃除しないのだろう。兎に角汚い。・・台湾人に何で掃除しないのかと聞くと。「こんなものですよ。」それしか返ってこない。???日本半導体の敗戦エピソードの中の「過剰技術で過剰品質、過剰性能かつ高価格」その言葉も頭をよぎったが、この新幹線のボディーの汚れの件は、慣習かな、とも思う。何れにせよ、今こそ、日本の良いところは大切にして、なおかつグローバルな視点でニーズを探って行く時に来ている事だけは事実であろう。

2010年5月20日木曜日

まほろばとは。

今日の大朝は晴れ。雨上がりの朝だ。先日、新幹線で出張していると、内部の情報モニターで奈良の遷都記念の案内が流れていた。「まほろばの里」・・まほろば、何と良い響きだろうと心地よく心に入ってきた。「大和」にかかる枕詞で、「美しいところ、素晴らしいところ」と言う意味だ。ふと、その環境を作り出すのは人間なのだから、人間の心が「まほろば」でないと実現しない話ではないかと思った。何か、先入観で地域の代名詞のように感じていたが、やはり人間次第だと痛感した。その事から考えてみると、政治が悪い、相手が悪いと非難しても、変化することはない。これもまた、自分次第なのかとも考える。難題、課題を抱え帰宅すると、孫の靴が玄関の片隅にあった。一瞬にして、心の霧が晴れたようになる。・・やはり、自分次第だなと。と一人で苦笑いする。
曹洞宗管長を務められた板橋興宗禅師が「人間は動物である事を忘れてしまってはダメ」と言われている・・奥の深い言葉であると思う。そうなんですよね。

2010年5月19日水曜日

この先はどうなる。

今日の大朝は雨、一日中降り続いた。先日、東京の友人から参考までに、とメールが届いた。添付資料を見てみると、今年の2月、経済産業省から出ている「日本の産業を巡る現状と課題」と題した、50ページの資料であった。冒頭に「産業競争力部会の設置」とある。今日の日本の産業の行き詰まりや深刻さを踏まえ、「今後、日本は、何で稼ぎ、雇用して行くのか」を検討していく部会である。正に弊社も直面している課題で、ページをくって行った。田舎企業ではあるが、現在の情報化時代、ある程度は端くれでも現役で経営している者として、日本の立ち位置を理解していると自負してたが、一ページ、一ページ衝撃的な統計が出ている。このままで行くとは思わないが、再起不能状態に来ているのは事実である。いや、新たな時代に変革しない限り既に進んで行かないところまで来ている。弊社は既に影響を受け正にその時点にいるが、大企業は既に拠点を中国を中心とした市場に生産拠点を移している。ドメスティック企業(中小企業)だけ取り残されてしまった形になっている。近々、仕事がなくなる事は明白である。更に今まで、生き抜くため、中小企業は血のにじむ努力でここまで来ている。一人当たりの付加価値も大手企業と余りにも極端にかい離している。この先はどうなるのか。・・いくら考えても結論が出ない。2010年は歴史に刻まれる年になる事は確実だろう。最後に愚痴を言いたい。・・国会の先生方、現実を直視してください。今やらなくてはいけない事があるでしょう。

追記
統計が主ですが、関心のある方は資料を送信します。連絡ください。同じ気持ちになるはずです。

2010年5月11日火曜日

大切なこと

今日の大朝は小雨、新緑も濃くなり、勢いを体感する季節になった。しかし、肌寒い。この連休は、穏やかな日に恵まれ、それぞれ目的が達成できたことだろう。我家も連休最後の日、孫たちが中心の「こどもの日バーベキュー」をした。我家の白内障の老犬マックもこの時ばかりと、存在感をアピール。すまし顔でまるで子供たちが見えているみたいに眺めていた。弊社も28期に入り早2ヶ月、大きな方向転換の時を迎えている。時代背景上仕方ない事であるが、政治経済共々、混乱を極めいてることは間違いない。
ふと、先日の孫たちの動きや、愛犬の行動などを見ながら、私たち大人が忘れかけている物があるような気がしてならない。これだと明言はできないが、原点とでも言おうか、大切なもの…。
「外国(とつくに)の風招きつつ国柱(くにばしら)太しくあれと守り給ひき」美智子妃殿下の御歌である。
明治の草創期、押し寄せる外国の文化に日本の国柄を失いかける危機があったらしい。その時に明治天皇は「教育勅語」を発布し、日本人が護持すべき精神的基盤を明示し、危機を救ったということだ。
その事を歌われたものだと言う。時代は違うが、なぜか心に残る。正に大小問わず、あらゆる場面でその歌が当てはまるような気がする。

2010年5月4日火曜日

第101回設立記念式典

今日の大朝は晴れ。今日も暖かい一日だ。大朝は農作業の真っただ中である。各家には沢山の車が止まっている。農作業を手伝いに都会から帰ってこられているのだ。大朝はこの時期が一番人口が多いのではないだろうか。さて、昨日、5月3日は母校の広島県新庄学園の設立記念日だった。昨年100周年を終え、また新たな一世紀のスタートを切った。式典に続き、宮庄良行理事長の「新庄学園のこころ」と題し講演があった。1900年前後、東京で津田塾、実践女子、東京女子医大等、女性のための教育が始まった矢先であるが、時を違えず、1906年地元、日野山城主吉川元春公の贈位を記念して、地域の有志が集まり、生きた記念碑として、新庄女学校を設立された。明治42年まだその当時は「小人、女人」は完全に差別されていた。何と崇高な志が芽吹いたものであろうか。「人間として、女性として、国民として」立派に育て上げたいという強い思いがあったらしい。鹿児島ご出身の豊留アサ先生(東京女子大卒)との出会いもあり、校長として基礎を気づかれている。・・(追記参照)よくぞ、この中山間地のこの地に。・・いくら考えても私のレベルでは想像を絶し、映像すら出てこない。しかし、一世紀、立派に歴史を刻み、更に続けている。私が凄いというのは恥ずかしい気がするが余りにも崇高すぎる。講演を聞きながら、今の現実に戻してみても、この2010年は「100年前に新庄に女学校を造ろう。」と発起されたと同じぐらいの発想で物事に取り組む時期のような気がした。政局、経済、教育と全てが再度、歴史に学び、先人に学び、新たな社会に動き出す。そんな年になるのではないかと、零細企業の経営者のはしくれではあるが、ビビッと直感がはしった。「正にいまだ」と。わが社も同様、新たなる時代の「夢」=(目標)に向かってスタートだ。

【コラム】新庄学園女子寮の“お主婦さん”物語
新庄学園女子寮には創立1909年以来の主婦制度があります。これは当時日本女子大学を卒業され校長として赴任された鹿児島県加治木出身の豊留アサ先生が日本女子大学女子寮の「主婦制度」をそっくり新庄女学校(当時)の女子寮にもってこられたものといわれています。

家庭の主婦は家庭の切り盛りをするように、寮にあっては舎監の指導のもと寮の切り盛りをするというところから、寮の“お主婦さん”という自治制度が設けられました。現在でも最上級生が交代でお主婦さんになり、親身になって下級生の学習・生活指導をしたり、相談にのったり、注意をしたりしています。お主婦さんの仕事は大変苦労も多いのですが、この経験こそ上級学校に進学したり、社会に出たとき威力を発揮します。

新庄学園では寮の方針として個室を設けていません。一部屋に必ず1,2,3年がいるようにしています。(ただし3年生は後期日程から3年生だけの部屋となります。)こうして一緒に生活することにより上級になるのに従って下級生の指導ができるようになり、また、それが人間関係をつくっていくためのよい練習になっています。 このようなねらいがあるため、男子寮、女子寮とも原則として2,3年からの入寮は認めていません。

以前(40年くらい前?)はお主婦さんの部屋に入る時は、膝をついて両手で戸を持って「ごめんあそばせ」と言って入ったそうです。また、昔の女子寮は階段が狭く、下級生が階段を途中まであがっていた時でも上級生が上にいたら、いったん下まで降りてその上級生が降りてくるのを待ったそうです。

ある女子寮出身の方が就職して研修に参加したときの話。その方の布団のたたみ方を見て、そこの指導教官が「あなたはひょっとして新庄学園女子寮の出身ではありませんか?」と聞かれたそうです。驚くその方に「そのような布団の折りたたみ方は新庄の女子寮のやり方です。それですぐわかりました。」と言われたそうです。

現在「ごめんあそばせ」という言葉は残っていませんが、夜の点呼の時、お主婦さんからの伝達は「…してもよろしゅうございますが…」という言い回しがわずかに残っています。これは1909年開寮当時からの由緒ある(?)言葉です。

数年前、NHKの連続ドラマ「春よ来い」というのが放送されましたが、その主人公は日本女子大学の寮生で、そこでの生活ぶりが描かれていました。脚本は「渡る世間は鬼ばかり」の橋田壽賀子さんです。橋田さん自身が日本女子大学の女子寮におられたそうです(私の記憶違いでなければ)。

このドラマを見て、かつての女子寮と同じであることに驚かされたことをよく覚えています。ドラマにはお主婦さんも確かにおられました。部屋の雰囲気、寮生の着物など昔の新庄女学校女子寮とそっくりでした。

日本女子大学に電話して新庄学園女子寮のお主婦さんのことを話したところ、応対された方も日本女子大学女子寮の出身の方で「わたしがいたころは確かに主婦制度がありましたが、今はもうなくなったようです。」との返事でした。

日本全国で本校の女子寮以外に日本女子大の主婦制度が残っているところはあるのでしょうか。日本女子大学女子寮出身の方、もし「お主婦さん」の現役姿をご覧になり「お主婦さん」とお話ししたいという方がいらっしゃれば、ぜひ新庄に来てみてください。できれば橋田壽賀子先生にも来ていただきたいものです。「お主婦さん」の伝統は今もなお広島の田舎で力強く息づいていますよ! 

豊留校長先生の時代に女子寮にいらっしゃった方がまだご健在であればぜひ一堂に会して、いろいろお話を聞かせていただくような会がもてたらと思っています。当時の資料、思い出などありましたら、ぜひお知らせ下さい。

昭和54年からの主婦日誌が女子寮に残っているそうです。どのような思いで歴代のお主婦さんが主婦としての任務を果たしていたかぜひ拝見したいものです。

 ( 文責 山田隆介 )

2010年5月2日日曜日

おかげさん

今朝の大朝は快晴。朝は少し肌寒いが一日良い天気のようだ。丁度一週間になるが、体調不良でしんどい一週間であった。何とか仕事は続けられたが、後は気力なし。丁度一週間前、25日、国体記念のおおあさソフトバレー交流会が行われ、50チーム300人の選手に参加してもらい盛大に大会を行う事ができた。この大会恒例の前夜祭にも100名を超える参加者で正に一大イベントである。大会当日、朝起きると声がでなくなっていた。風邪である事は確かだが、「声が出ない」。慌てて、のど飴や色々と対応しても効き目なし。開会式の挨拶だけは、聞き辛さはあっただろうが何とかクリア。その後時間がたつにつれ、全く声が出なくなり、途中帰らせてもらった。その後、丸一週間、昨日まで仕事こそ、通常に続けたのではあるが、体がしんどく、風邪の症状が回復しなかった。28日から30日までは東京出張であったが、移動の電車で休んでは何とか仕事になった。と言う事で、前口上が長くなりましたが、ブログの更新が止まっていました。申し訳ありません。直接は言いにくいのだと思いますが、間接的にブログが止まっているが出張中とか。拝見しています。とか言葉をいただいているようです。有り難いことです。
出張中、何とか元気を出さないといけないと、宿は新橋ですが、東京駅から歩いて帰る事にした。ふと目に付いたポスター「おかげさん」と書いてある。心にスッと気持ちよく入ってきた。相田みつを美術館で開催と書いてあるので寄ってみることにした。仕事面では心身ともにくたくたになる。私のみならず何れも一緒だと思う。それぞれの言葉を見ながら、「反省反省」の連続である。「おかげさん」・・。役者冥利に尽きる。よく聞く言葉ですが、身に余る恩恵を受けて感謝する意味です。冥利の「冥」は暗いという意味です。
暗いから目に見えない。自分のわからないところで受けている恩恵とでも言うのでしょうか。
その事を「おかげさま」と言うんです。おかげのかげは暗い陰の事です。自分では見えないから陰なんです。私たちが今ここに生きている、いや生かされているためには、自分の気のつかないところでどの位、冥利を受けているのか分かりません。何もかもが「おかげさん」です。お表さまとは言いませんよね。
「おかげさん」の書の前で、釘つけになり、その間、色々な思いが走馬灯のようによぎった。
ふと引き込まれた相田みつを美術館。何か自らの整理整頓ができた。「人間が主役」決して判断は誤っていないと確信した。